SSTKコーヒータイム通信-Vol.107-
 暑いですね!最近の夏は凄く暑い。私が小学生の頃は暑くても自然の暑さのような気がします。もちろんクーラーもありません。でも夏のビールがすごく美味しい。もちろん20歳過ぎですけどね。
 また、そんな事を言っていられない現実がたくさん問題になっている現状もあります。
これからの日本、高齢者・障害者だけでなく日本人全体がどのように生きていけばよいのでしょう。政治家さんも何を考えているのでしょう?
日本人も何を考えているのでしょう。皆さん放射能のことは、考えていますよね。
 今年の秋のガレージセールは、中止とさせて頂きます。次回をお楽しみに!(坂本)


●今後の予定
9月2日・5日・6日・12日・15日 埼玉県視覚障害者移動支援事業従事者養成研修inあさか
10月29日 ふれあいの輪(朝霞市障害者団体協議会)
11月(予定) 埼玉県視覚障害者移動支援事業従事者養成研修
12月3日 第2回朝霞市民活動まつり
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「KSKR積木No.226 8月号より抜粋」
震災から五ヶ月、被災地のこれからは長い。
CILたすけっと(被災地障がい者センターみやぎ) 及川 智
 自らも被災し、事務所で避難生活をしながら、とにかく「できることから」被災障がい者の支援活動に尽力されてきたCILたすけっとの及川さんにこの間の状況についてお書きいただきました。
●発災
 平成23年3月11日。あの日から生活が一変しました。M9.0、最大震度7の凶悪な地震は、少しの手加減もなく、東北から関東にかけての広範囲にわたって太平洋沿岸を襲った。
 あの日、強大な揺れをたすけっとの事務所での会議中に迎えた。少しずつ強さを増す揺れに慄きながら、頭を抱えるしかできなかった。電灯がたれ、ガラスが割れた。棚が倒れ、書類が散乱した。乗っていた電動車いすのなんと逞しかったことか。倒れずに僕を守ってくれた。会議に参加していたメンバー全員無事だった。
 動悸を抑えて外に出ると、崩れた歩道、ゆがんだ道路。たすけっとがある地域は特に揺れの被害が大きかった。最低限の安否連絡を入れて、連絡を待つ。が、地震直後つながったPHSも10分後には不通になった。その場にいたメンバーは健常者スタッフも含め、男女二手に分かれ、指定避難所に向かった。
● 指定避難所
 指定避難所である地域の小学校の体育館は、ブルーシートが引かれ、ストーブが点々と置かれていた。まんじりともせずにおり、校舎にあった、多目的トイレで用を足した。徐々に人が増え、身動きが取れなくなるという予見があったからだ。その予見は見事に当たり、22時を回ることには、足の踏み場もない状況になっていた。その間、毛布・食料の支給があったものの、物資の配給場所まで行くことは困難であった。私はたすけっとスタッフのサポートが得られたが、みな被災している状況でサポートを求められる人は少ないのではないだろうか。
 震災後、当事者の間でたびたび議論になる点が一つある。それは、今回のような災害の時にどうやって逃げるか、ということである。常時支援者と一緒にいるとは限らない。ましてや地震の場合、周囲も大小あれど被災する。結局、自分で逃げる??ということである。「支援を得て生活していこう」という常々公言している我々にとっては、非常に大きなテーマだと思っている。平時からの近所づきあいがポイントとなると思う。
● 事務所での避難
指定避難所でも設備もなく、身動きが取れなくなった我々は、水が止まらなかった事務所へとんぼ返りした。15人が事務所の一室ですし詰め状態で石油ストーブとラジオを頼りに夜を明かした。ラジオから聞こえてくる「沿岸部に遺体が多数」「太平洋岸壊滅的被害」という知らせに言葉を失った。
● 支援活動の開始
 一夜を明かし、事務所に物資を集め、避難所とした。幸運にも12日から電気が通った事務所では、携帯電話の充電サービスを開始した。『できることからやる』みな、そんな気持ちだった。身を持って不安を、不便を感じた。障がい者に支援が行き届かないのは明らかだった。「全国から物資が来る」と分かってできる限りのことをした。障がいに特化した物資提供、このころからすでに障がい者を見つけ支援する。他の支援団体と繋がって物資を得て届ける、という現在までつながるスタイルができたのだと思っている。
「被災地障がい者センターみやぎ」となって4ヶ月に入るが、活動の形態、内容が変化している。
当初はとにかく物資提供と状況の把握に走る、という感じであった。物を届け、状況をきき、また他のところへ、「センターみやぎ」の拠点となったたすけっとは、仙台市内以外の福祉状況に疎かった。沿岸中心に県内全域に支援に走り、情報を得られていることは非常に有意義である。『復興』の取り組みに移るときの貴重な財産となる。
 現在は、避難所の大半が閉鎖され、応急仮設住宅、仮設扱い住宅への入居が進んでいる。仮設住宅への移行に際して、見えてきた事は主に3つ。1つは仮設住宅に移ると救援物資が得られないということで、移らないケースもある。2つ目は、応急仮設住宅のバリアフリー化の課題。3つ目は、応急仮設住宅は建てたが人気がなく、入居希望が一戸もない仮設帯もある。特にバリアフリー化は、国がスロープ敷設等の費用を出し、施工できることとなっているが、担当である市町村窓口によって対応がまちまちであり対応も遅いことから、NPOと協力して「センターみやぎ」で実際に施工しようかという案も出ている。
 少しずつ、個別支援が減りつつある中で、次期の活動について作っていく時期に差し掛かっている。つまり、当事者に向けたプログラムを組んでいく時期だ。プログラムとは、イベントや自立生活プログラムなど当事者をつなげる、つながるためのプログラムである。が、悩みがここにある。かねてからの課題だが、企画力が弱いというのが、弱点だ。しかしながら、皆と話し合い作り上げていこうと思っている。
 被災地のこれからは長い。しっかり方向感をもっていきたい。


「身近な震災体験 第19信より抜粋」
想定外
青森県八戸市 織田 茉莉

 2011年3月11日、金曜日。仕事を5時で終えたら、6時の新幹線に乗るつもりで仕事を片付けていた午後のことだった。まさか地震がくるなどと思わず、まだ春遠く、寒い北国の片隅で必死でパソコンを打っていた。
ん?地震??揺れを体で測りながら、いつもの癖でS波とP波の鑑別で震源地の距離を推測しようとしたが……が、できない!!なんだ、この揺れは!!!揺れはじめてすぐにパソコンの画面が消え、天井の蛍光灯も消える。しかしながらまだこの時は、かつて十勝沖地震、宮城沖地震、三陸はるか沖地震、その他数回の震度5クラスを経験している私にとって、想定外のものではなかった。
 ビルのアナウンスがあったが、聴覚障害の私には何と言っているのかわからない。
「建物が崩壊の危険があるんだって!外に避難してって言ってるよ!!」
同じ部屋の人が教えてくれた。誰かいたからいいもの、一人で留守番していたら、アナウンスなんてわからない。崩壊したら部屋の中にいたまま死んだだろう。
 外は寒い。みんな震えながら外に避難。お向かいのビルにつかまっていたら、「そのビル、壁が崩れる危険性があるよ」と声をかけられた。よく見ると、壁が一部落ち、ひびも入っているではないか。あわててそこを離れる。
 5時、すぐに駅に走る。新幹線が止まっていると東京の友人からの携帯メールで聞いたので、東海道の分も切符をキャンセルしないと……と思ったのだ。(停電でパソコンもTVもダメで、つながりにくい携帯だけが唯一の情報源)しかし、駅の中に入れない。どこも鍵がかかっている。日中の駅で鍵?初めての事態である。ガラス越しに見ても中に人がいない。
駅のガラスには手書きの1枚の紙が貼ってあった。『津波のため、駅を封鎖』……駅前のバス停は、バスが止まっていて、来ないという。ここから想定外の物語に入っていくことになるのだ…。
 17:24、友人からメールが入る。「津波が凄い……浜は壊滅的……」そこで海のそばの舘花公園に移動する。眼下に八戸の港が見える小高いところだ。津波の時はそこに逃げろと言われている。チリ津波の時から聞いていて、覚えていた場所だ。行ってみると、大勢の人がいる。避難してきた子供たちが毛布をかぶって震えていた。眼下には波で流された車が折り重なっているのが目に入る。ライトはついたままだ。船が流されてくる。凄い早さだ。なんということだろう。……あれは家だろうか。しばらく放心して眺めていたが、たまたまカメラを持っていたので記録する。
 これは、普通の事態ではない!すぐに直感的に悟った。停電ということは、ニュースが入らないし、こちらの事態も知られていないだろう。そこでこの画像を市外の人に送って、こちらの状態を伝えなければ……と思った。誰彼に送るわけにはいかないので、山下さんを含め、数人厳選した。その山下さんはこの私の気持ちに見事にこたえてくれることになる。『身近な被災体験』として、それは今も続いていて、みんなの声がネットに流されているのだ。もう一人は海外に情報を流してくれ、それは後にイギリスまで行き、そこで英訳されて読まれることになる。
 このような事態になるとは思わなかったので、携帯も電池がない。携帯は聞こえない私の唯一の情報源である。考えた末、モバイルのパソコンと携帯をつないで、パソコンからバッテリを携帯に流した。障害者って頭を使って工夫して生きていかなきゃならない部分があるので、最後まであきらめない。何とかしてサバイバルをするときは強いのだ!エッヘン!!(注・人による……かもしれない。ま、障害を持ってていい面もあるってことさ)
 ここで落ち合った友人から、天然記念物のウミネコ繁殖地・蕪島前で撮った津波の画像を見せてもらった。津波が煙を上げて押し寄せてくるその上には、カモメが多数飛んでいる。カモメって津波が怖くないんだ?!そうか、人間にとっては災害でも、カモメにとっては餌が採れるラッキーな自然現象なんだ……。
 次の日。津波の跡を歩く。ガソリンスタンドに突っ込んでいる車が見える。ビルの玄関にも車が突っ込んでいる。タンクローリーが流されている……。建物にぺったりくっついて、垂直に貼りつけられて立っている車も。ああ、車って津波に弱いんだ。……そうか、タイヤがあるし、窓を閉め切ると浮力があるから簡単に流されてしまうのか。昔から津波が来たら、車には乗るな、走って逃げろとはこのことか50年前のチリ津波の被害がひどかったので、繰り返し伝えられたことが思い出される。伝承は無駄ではない。
 津波の跡は濃厚な潮の匂いが充満し、残して行った泥の跡が非常に滑る。油断するとずるっといくので、腰に負担がかかる。何もかも流され、言いようのない光景が広がる。
 紙面が尽きた。想定外の事態がまだまだ続いている……。機会があれば続きをまた。


「身近な震災体験 第19信より抜粋」
世の中「想定外」ばかりなり
越谷市 倉川 秀明

 この度の東日本大震災の津波の大きさと破壊力は、私たちの想定をはるかに超えるものでした。被災された方々は勿論、直接被災しなかった私たちも、その光景に愕然とし、人智の無力感にさいなまれるばかりです。
 しかし、岩手県普代村では、死者ゼロ、行方不明者1人でした。高さ15.5mの水門と防潮堤があったからです。これは、昭和40年代から50年代にかけて、当時の村長、和村幸得氏が反対する県や村議を説得して建設したものです。明治29年の大津波の高さが15mだったとの村の言い伝えから、15.5mの高さにこだわったのだそうです。
(産経新聞4月25日http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110425-00000628-san-soci)
 2004年12月のスマトラ沖地震の際には、タイ南部のプーケットなどの海岸地帯も津波によって大きな被害を受けましたが、ほとんどのタイ人、外国人観光客は、津波を認識していませんでした。砂浜の海水が沖へと引いていったとき、多くの人は面白がって、沖へと入っていきました。そこに大津波が突然やってきたのでした。
 一方で、ビルマやタイ、マレーシアなどの海岸には海を移動して暮らしている貧しい漁民、ロヒンギャ族という人々がいて、ヨーロッパのロマ(その蔑称がジプシー)と同じような存在だと言われています。彼らには、海水が沖へ引いたら、高台に逃げろという昔からの言い伝えがあり、タイ南部の津波の時には、高台に逃げて無事だったという話を聞きました。彼らの場合、津波は「想定内」のことでした。その想定を、言い伝えという形で、一族が代々受け継いできたのです。つまり、一個人は知らなくても、民族全体で認識していたということです。
 普代村の村長、ロヒンギャ族、彼らこそが、知恵者と言っていいでしょう。

 これに対して、福島第一原発事故は事情が全く違います。東京電力がこれまでずっと意図的に想定を甘くして、安上がりに原発を作り続けていながら、今回「想定外」を理由に事故の責任回避をしていることは、到底許すわけにはいきません。このような偽りの情報、嘘の言説と本当の知恵とを見分けることが、今ほど必要なときはないでしょう。
 僕は、どこでも、何をしてでも生きていけるという覚悟と技術・知識、そして経験、つまり、生きる知恵をできるだけ身につけたいと思います。僕が有機農業の百姓を選択したのは、このためでもあります。その生きる知恵を、一人では無理なら、家族で、集団で、地域で、蓄積していきましょう。

 ところで、原発事故によって被害を受けた側の人々にとっては、全くの想定外だったに違いありません。原発の爆発によって大きな放射能被害を受けている福島県飯館村には、友人家族がいました。約8年前に、有機農業には理想的な場所だというので、移住して、耕作放棄されていた田畑を整備しなおして、有機農業を営んでいました。僕も、その当初に2度訪れて田畑の整備を手伝ったりして、そのすばらしい環境に感心したものです。そこへ、突然の原発事故。友人一家は、直後に知人のいる三重県に避難していきました。有機農業の場合、放射性物質が基準値以下だから大丈夫だということにはなりません。それは、農薬や化学肥料と同じように、基準値以下か以上かに関わりなく、自然界にないものが土の中にあること自体が問題なのです。それまで丹念に土を良くしてきた農地を離れることは、どんなにかつらく、悲しかったでしょう。同じ有機農業をしている百姓として、痛いほどその気持ちはわかります。

 人間の知識や認識の範囲、深さには、おのずと限界があります。世の中や自然界のあらゆる事態、現象を「想定」しておくわけにはいきません。「想定外」の事態は、いつでも、どこでも起こりうるのです。しかし、そのたびに、命を落としたり、怪我をしたり、悪影響を受けたりしてしまうのです。でも、そこをどうにかできないものでしょうか。
 まず、発想の仕方。ある「想定」をするから、必然的に「想定外」のことが起こるのです。だから、何があってもおかしくない、何でも起こりうる、起こって当然だ、と考えたらいいのではないでしょうか。つまり、無闇な想定はしないということです。ただ、現実的には、一定の想定をしないと何事もできないでしょう。しかし、その想定は絶対ではなく、あくまで仮の想定であって、その想定外の出来事は起こりうるのだという想定をしていることが、大事なのだと思います。そして、そのための備えを何らかの形、方法でしておくことが、生きる知恵へとつながるでしょう。
 例えば、僕の連れ合いは、以前から非常持ち出しの用意を念入りにしていて、それを不燃布でできたリュックサック3つに入れて置いています。これだけでも安心度はずいぶん高まります。避難場所、連絡方法なども確認しておきたいものです。
 次に、生き方の姿勢。国や自治体、あるいは会社や団体など、つまりは権力や組織に頼るのではなく、自立した生き方をすること。権力や組織に頼るから、権力や組織に規制されてしまい、それらの想定の中でしか生きられなくなるのです。
 ただし、このことは、国や自治体に対して、権利として、平等であること、健康で文化的な生活を保障させること、あるいは、それを要求することとは、矛盾しません。それは、頼っているのではなく、国や自治体から独立しているからこそ権利を主張できるのだからです。また、組織や団体に属していてもいいです。しかし、最も基本的なところで、他者に頼らないということです。独立自営を理想としたいと思います。その上で、他者とつながり、ネットワークを広げていきたいと考えています。
 あとは、神のみぞ知る。 生も死も人智を超えたところにあるのでしょう。 


「坂本のきままなひとり言」
 今の日本って66年前の「太平洋戦争」の頃の「大本営発表」と同じような気がしています。
なぜかと言えば、政府の発表が特に原発のことなども含めて嘘ばっかりで、それをそのままNEWSにのせ
ているマスコミ。なんでこんな日本になってしまったのだろう。
 あ?ぁ本当のことを教えて。政府さん、マスコミさん。(坂本)

≫編集人≪
 特定非営利活動法人 障害者も地域で共に・コーヒータイム 
 代表 坂本 さとし    
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