教育の欠格条項をなくす会シンポジウム パート2 概略


分け隔てられることのない社会を目指して

〜教育の欠格条項と障害者基本法を考える〜2004.5.9


1.基調講演『教育の欠格条項と障害者基本法』 大谷恭子(弁護士)

【教育の欠格条項】

法律の体裁として、わが国は「原則分離主義体制」をとっています。学校教育法22条には、親の就学させる義務を規定しています。認定就学者制度が出来ましたが、そうすると、「原則分離・例外統合」という規定になっていると解釈せざるを得ない。強制的に分離することは差別であると、20年近く言い続けているが、施行令を改定するまでにはいっていません。普通学校への資格を「障害」ゆえに、「あなたは資格がない」と言っている。これは欠格条項の一つと言うことは可能だと思っています。


【国際的な潮流】

(1)障害者の機会均等に関する基準規則は、1993年12月に国連が発表し、教育においては原則統合をはっきりうたっていますが、「非常に限られた場合、特殊ではあるが、最も効果的な教育の一つとして特殊教育があることも考慮に値する」という但し書きは、文科省がロビー活動をして無理やりねじ込んだものとして有名です。

(2)サラマンカ宣言  今ある社会に「障害」のある人が入っていくという、それまでの共通認識を、「障害者」に対する支援だけではなくて、社会そのものが変わる、変わらなければならないのは「健常者」の方だと、教育全体であると意識したのが、サラマンカ宣言です。そこで初めてインクルーシブということばがでました。これは、教育では非常に重要な意味を持っていたはずです。例えばわが国では、子どもの権利条約に基づき、過度な競争主義が子どもを疲弊させていると、国連から2度も勧告を受けています。ですから、「障害」のある子どもがクラスにいることによって教育そのものを変えるというインクルージョンは、非常に重要な指摘であったし、サラマンカ宣言が、「障害児」に対する支援だけでなく、クラス全体・集団全体が変化しなければならないということを指摘した意味においては、非常に意味があり、基準規則とサマランカ宣言は一体として読むべきだと思います。

(3)障害者権利条約 従来私は、選択対象は特別学校であるべきで、そうでないと、本来特別学校へ行くべきなのに来てしまった子という意識がついてまわり、差別はなくならない、全員が入れるということを、まず学校システムとして作り上げなければと言ってきました。

ところが、基準条約、人権規約、この四つをふまえて、国連の特別部会で検討されている障害者権利条約では、普通学校を選択の対象としています。これは、権利条約が、もう一歩進んでしまったんだと思います。なぜなら、全ての「障害」のある人がインクルーシブ教育を受け得るということを前提としているからです。全員就学を前提にし、それぞれのニーズを全員就学として入ることのできる普通学校で満たすのか、特別学校で満たすのかは、本人の選択にして下さい、そういう体裁になったと私は理解しています。そういう意味での選択になっているということを必ず思い出してください。今日はそこに全然至っていない我が国の欠格条項を、どういう風に廃止して学校教育法を変えていくのかを共通の話題にして頂きたいと思います。


2.シンポジウム

(1)千田好夫さん(司会 障害児を普通学校へ全国連絡会)

自分は就学猶予もしたのに地域の小学校へ入れてもらえなかったので、近くの私立の学校へ行ったのですが、孤立無援で毎日いじめられ、不登校のような状態にもなりました。振り返って、子どもにやっぱりこういう経験をさせちゃいけないと思っています。


(2)金子健さん(明治学院大学教授 全日本手をつなぐ育成会)

一緒に学ぶべき子ども達を振り分けている施行令

私は、大学で障害児教育学を学生に教えています。知的障害児教育の作業学習ではこんな指導法がありますよ、というような研究もしてきました。

一方で私の弟との50年の付き合いの中で、弟も養護学校で数や文字を覚えたわけですが、今の彼の生活をみると、本当に家と作業所の往復でしかない。そのあたりから、養護学校だけで過ごしてくるこのさまざまな問題に気付かされ、彼から教えられたというか、そう思うようになって20年ほどです。

施行令22条の3に関しては、ずっと引っかかっていたというか、学校の先生方は当然だと考えていて、弟もかつてはそう思っていました。しかし、弟との付き合いや、あるいはいろいろな運動などを通して考えますと、これがそもそも全て、一緒に教育を受けるべきである子ども達を振り分けている大元になっていると、気付かされるわけです。そういう意味で、この「教育の欠格条項」という表現は、誠に的を得ているだろうと思います。


「障害児」教育の2つの側面

「障害児」教育の場を設けることについては2つの側面があると。一つは障害のある子どもの教育権の保障、教育の機会を保障する。もう一つは、通常の教育をより効率的に進めるためだと。これはどこにも書いてないですが、国会や当時の文部省の議論の中で出てきました。分けて、「障害」のある人達の教育の権利を保障するという側面を前に出しつつ、実は一般の子ども達の教育、それを守っていくんだと。

今、文科省は、特別な配慮の必要な子どもが6%いるということで、特別支援教育と盛んに言っていますが、普通の学校の先生はほとんどそれについては理解していない。そこに特別支援教育ということで、「障害児」も入ってくるとか聞いて、とんでもないという反応がほとんどです。そんな状況を目の当たりにすると、確かに欠格条項だし廃せよと思いますが、ひるんでしまいます。


関係性の改善

そんなひるむ僕を力づけてくれるのが1980年にWHO(世界保健機構)が提唱したインペアメント・ディアビリティ・ハンディキャップです。2001年にはその改定版、ICF、国際生活機能分類を出しました。障害はその人固有の問題と捉えるだけでなく、社会との関係の中で捉えるべきだという方向性を打ち出したわけです。例えばLDといわれる子どもも、パソコンを使って文字を書くとか、計算機を使って計算することで、一般の学級の中で普通に勉強することがいくらでもできる。「関係性の改善」と僕は勝手に言っていますが、学校教育法にうたわれて障害の改善・克服ということでその子どもの尻を叩いてやってきた。そうではないんだと、周りが変わることが大事なんだと国連が言ったわけです。これは、ソーシャルアクティテュード(社会的な態度)としてどこの国でも大きな議論として取組んでいます。

発達保障論というのがありますが、それは固有の障害をどう改善するかということでやってきた。そうではなく、関係性の保障、関係を変えていくことで、その人の障害の状態を変えていくという、国際的な視点に我々は立つことによって、振り分けて別々に教育することがその改善にはつながらないんだということを、もっと声を出して言っていく。そういう視点で皆さんと議論していきたいと思います。


(3)平井誠一さん(DPI日本会議)

今時の養護学校

僕は、ずっと青い芝の会や全障連の運動の中で、養護学校の問題に関わってきました。70・80年代はどちらかというと、法律を問題にするより教育委員会を相手に、体をはっての運動が多かったです。今、僕らが行ってた時と養護学校が変わったなと思うのは、クラス編成です。僕らの頃は義務化前でしたが、能力的に高い人低い人のふたつぐらいしかクラスは分けられていませんでした。今は結構細かく、複雑に分けられていますね。それと僕が一番びっくりしたのは、同じクラスの子が先生を介してしか話しができないということ。義務化以降は、変わっちゃったんだなと思い知らされますね。

あと、進路の問題でいくと、職業体験じゃない、今の子はなんとなくそっちに行くものだと教育されてきてしまっている。親たちも、何となくそこへ行けば安心なのかなと落ち着いてしまっているところがあるような感じがします。今の子どもは、先生の段階で待ったをかけてしまい、親の段階でそれはやっても無理だから行かなくていいよと言ってしまう。今の養護学校教育というものが、特別なところの教育でしかないんじゃないかなと思います。


(4)野島久美子さん(教育の欠格条項をなくす会準備会)


私の生活と活動

今日は普通学校に入っての生活と活動の話を中心にします。私は、東京の荒川区に生まれましたが、1歳の時にけがをして「障害児」になりました。昭和40年に養護学校に入り、施設へ行きました。一人暮らしをして数年後、わらじの会の人と出会いました。

そのときに、「重度障害者」の人が地域の学校に入っているというので、私は「えーっ」と思いました。それからずっと20年間、高校問題をやって、平成4年に何度か落ちていた普通高校に合格しました。セーラー服を着たいと思い受験をして、社会人特別選考で合格しましたが、電車通学のために初めて定期券を買い、すごく嬉しかったです。通学を始めて3ヶ月経たないうちに最寄りの駅にスロープができて、毎日通うおかげでできたと、しみじみ感動しました。2年生の頃に移動教室があって、学校側が介助人を置きました。特に要求はしていなかったのですが、2年から4年まで、移動の時や帰りの支度の時などに介助してくれました。

埼玉県の教育委員会とは長年、話し合いをしていますが、「障害児」の高校進学にあたっては介助人を置くことはできないと書かれていて、削除するようずっと言ってきました。ようやく「研究する」という一文が盛り込まれたに過ぎません。これからの課題です。


(5)大谷恭子さん(弁護士)

施行令5条

施行令5条を紹介します。5条の1号には、「盲者、聾者、知的障害者、肢体不自由者または病弱者で…」、それ以外の者が普通小学校にははいれますと、そういう規定の仕方なんです。まさに欠格条項にふさわしい文言で、そりゃないだろうと率直に感じます。その次には、「特別の事情があると認めるもの」を認定就学者と言ってるんですね。まず「以外の者」と落としておいて「特別な事情の者」を拾い上げてあげるよと。そのような規定そのものがおかしいと思います。

原則分離の中で、特別支援教育を中心に文科省はニーズ保障だけを一生懸命言っています。一人ひとりのニーズに合うのはいいですが、まずは統合された環境の中でどうするかを考えないと、ニーズ保障が個別化・細分化、つまり子どもがどんどん一人になってしまいます。今私たちがやるべきことは、統合する環境をまず国の責務として追及していく、それをまずやった上で、というのをわかっていただきたい。




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